2014年7月28日月曜日

高村光太郎の 「牛」 ゆっくりと大地を踏みしめ着実に前進する姿が理想  2011年8月11日 記事

 8月11日(木)

 昨夜から今朝にかけて雨が降り、阿賀野市の気温はやや過ごしやすくなったように感じましたが、やっぱり今朝から暑くて大汗をかいて診療しております。

 昨日の新潟文理、優勝候補の日大三高に完敗でした。

 新潟の高校がベスト8以上に残った、過去2年は夢を見ていたような気がします。自分が頑張っていても、ライバルたちはそれ以上に頑張っているという、当たり前のことを再認識させられました。挫折を糧にまた今日から頑張るべし、それなりの紆余曲折を経た小生はそう思い、高校球児にエールを送りたいと思います。

 今回は 詩人 高村光太郎の 「牛」 について、小生が思うことを書いてみました。

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 国語の副読本か、問題集で見かけた、この詩は一口で言って泥臭く、どんくさくて、かっこよくない牛を取り上げたものです。

 中高生には敬遠されるような内容でしたが、作者の人生観や意志が語られているようで、冴えない高校生だった小生は自分への応援歌のように感じ、今でも壁を感じるごとに読み返しています。

 スマートで素早く正確に。 時は金なり の 現代はどの場面でもそれが求められます。

 でも本来、いきものとしての人間には肉体的・精神的なゆとり というか ハンドルのあそび みたいなものが、生きていくためには必須なのではないでしょうか。

 日本人の国民性として わき目も振らずにがむしゃらに一点を目指すけれど、到達点は空虚ですがるものをなくす…経済最優先、地縁・血縁が希薄化し無宗教をよしとしてきた日本で昨今、国内の自殺者が年間3万人を下らない状態の遠因では?と感じることがあります。

 これからお盆休みになりますが、どんなときにも 忙中閑あり といいます。一度じっくり 高村光太郎の 「牛」 をお読みになり、「牛」 に同化してください。お疲れ気味の方には特におすすめしたいと思います。 

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 高村光太郎 「 牛 」

 
 牛はのろのろと歩く
 
 牛は野でも山でも道でも川でも
 
 自分の行きたいところへは
 
 まつすぐに行く
 
 はただでは飛ばない、ただでは躍らない
 
 がちり、がちりと
 
 牛は砂を堀り土を掘り石をはねとばし
 
 やっぱりはのろのろと歩く

 
 牛は急ぐ事をしない
 
 牛は力一ぱいに地面を頼つて行く
 
 自分を載せている自然の力を信じ切って行く
 
 ひと足、ひと足、は自分の道を味って行く
 
 ふみ出す足は必然だ
 
 うわの空の事ではない
 
 是でも非でも
 
 出さないではいられない足を出す
 
 牛

 
 出したが最後
 
 牛は後へはかえらない
 
 足が地面へめり込んでもかえらない
 
 そしてやっぱりはのろのろと歩く

 
 牛はがむしゃらではない
 
 けれどもかなりがむしゃらだ
 
 邪魔なものは二本の角にひっかける

 
 牛は非道をしない
 
 牛はただ為たい事をする
 
 自然に為たくなる事をする

 
 牛は判断をしない
 
 けれどもは正直だ
 
 牛は為たくなって為た事に後悔をしない
 
 牛の為た事はの自信を強くする
 
 
 それでもやっぱりはのろのろと歩く
 
 何処までも歩く

 
 自然を信じ切って

 自然に身を任して

 がちりがちりと自然につっ込み食い込んで

 遅れても、先になっても

 自分の道を自分で行く


 雲にものらない

 雨をも呼ばない

 水の上をも泳がない

 堅い大地に蹄をつけて

 は平凡な大地を行く

 やくざな架空の地面にだまされない

 ひとをうらやましいとも思わない


 は自分の孤独をちやんと知っている

 は喰べたものを又喰べ乍ら

 ぢっと淋しさをふんごたえ

 さらに深く、さらに大きい孤独の中にはいって行く


 はもうと啼いて

 その時自然によびかける

 自然はやっぱりもうとこたへる

 はそれにあやされる

 そしてやっぱりはのろのろと歩く


 は馬鹿に大まかで、かなり無器用だ

 思い立ってもやるまでが大変だ

 やりはじめてもきびきびとは行かない

 けれどもは馬鹿に敏感だ

 三里さきのけだものの声をききわける

 最善最美を直覚する

 未来を明らかに予感する

 見よ

 の眼は叡智にかがやく

 その眼は自然の形と魂とを一緒に見ぬく

 形のおもちゃを喜ばない

 魂の影に魅せられない

 うるおいのあるやさしいの眼

 まつ毛の長い黒眼がちのの眼

 永遠の日常によび生かすの眼

 の眼は聖者の眼だ

 は自然をその通りにぢっと見る

 見つめる

 きょろきょろときょろつかない

 眼に角も立てない


 が自然を見る事はが自分を見る事だ

 外を見ると一緒に内が見え

 内を見ると一緒に外が見える

 これはにとっての努力ぢゃない

 にとっての当然だ

 そしてやっぱりはのろのろと歩く


 は随分強情だ

 けれどもむやみとは争わない

 争わなければならない時しか争わない

 ふだんはすべてをただ聞いている

 そして自分の仕事をしている

 生命をくだいて力を出す


 の力は強い

 しかしの力は潜力だ

 弾機ではない

 ねぢだ

 坂に車を引き上げるねぢの力だ

 が邪魔物をつっかけてはねとばす時は

 きれ離れのいい手際だが

 の力はねばりっこい

 邪悪な闘牛者の卑劣な刃にかかる時でも

 十本二十本の槍を総身に立てられて

 よろけながらもつっかける

 つっかける

 の力はこうも悲壮だ

 の力はこうも偉大だ


 それでもやっぱりはのろのろと歩く

 何処までも歩く

 歩き乍ら草を喰う

 大地から生えている草を喰う

 そして大きな身体を肥す


 利口でやさしい眼と

 なつこい舌と

 かたい爪と

 厳粛な二本の角と

 愛情に満ちた啼声と

 すばらしい筋肉と

 正直な涎を持った大きな


 はのろのろと歩く

 は大地をふみしめて歩く

 は平凡な大地を歩く

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